第五回 都営墓地「小平霊園」篇
桜の季節が過ぎ、新緑の真っただ中、都営墓地「小平霊園」を訪ねました。
最寄り駅は、西武新宿線の小平。所在地住所は東松山市です(敷地は、東松山、小平、東久留米の3つの市にまたがっています)。東京都には8つの都営墓地があります。「小平霊園」の開園は昭和23年。昭和46年開園の「八王子霊園」の次に新しい都営墓地です。
小平駅から線路沿いを少し歩くと、ケヤキ並木の表参道が見えてきます。参道沿いに石材店が軒を並べ、お花を売っていたり、休憩所があったりして、神社やお寺に観光に来たような気分です。300mほどで正門に到着。管理事務所で案内図を入手して、掃苔(お墓参り)開始です。ここには、作家の伊藤整、坪井栄、徳田秋声、小川未明、有吉佐和子、宮本百合子、詩人の野口雨情、角川書店創立者の角川源義(角川春樹の父)、民藝運動の柳宗悦といった多くの文化人たちが眠っています。明治時代開園の「青山霊園」のような、教科書に登場する人物は少ないみたいです。
今回の掃苔は、「添田唖蝉坊」のお墓です。明治、大正時代に活躍した演歌師の草分け。演歌といっても今の演歌とは違い、社会批判、世相風刺、庶民の心情を歌い、社会主義者の幸徳秋水、堺利彦とも交流のあった人です。彼の歌を聴いたことはありませんが(たぶん録音が残っていません)、フォークシンガーの故「高田渡」が添田の詞にアメリカのフォークの曲を付けて歌ったのが「あきらめ節」や「ブラブラ節」でした。添田唖蝉坊も高田渡も反骨の人でした。個人的には今回是非お参りしたいお墓なのです。
いやあ、広い霊園です。案内図の区画表示の番号と、区画標識(?)を照らし合わせながら行ったり来たりして、やっと見つけました。イメージを裏切らないお墓でホッとします。漬物石みたいな平たい石に「添田」とさりげなく文字が刻まれた墓石が、草に埋もれるように置かれています。建っているのではなく、置かれているのです。合掌。
その後、角川源義、有吉佐和子、柳宗悦のお墓を掃苔。合掌。
歩いて霊園全てをまわるには広すぎます。他にも気になるお墓がありますが、断念。
正門の方に戻り、「樹林墓地」と「樹木墓地」を見学します。いずれも、今人気を集めている「樹木葬」と呼ばれるお墓です。小平霊園の「樹林墓地」は初めての公営の樹木葬として平成24年に開設、「樹木墓地」は2年後の平成26年に開設されました。しかし、見た感じでは2つのお墓の違いがよくわかりません。
パンフレットの比較表によると埋蔵方法が違うようです・・
●「樹林墓地」樹林の下に設置されたカロートに、他の方のご遺骨と一緒に埋蔵します。
●「樹木墓地」樹木の周辺に、ご遺骨を「個別」に1体ずつ埋蔵します。カロートは設置され
ていません。
※ちなみに、「カロート」とは「納骨室」のことです。
「合葬(合祀)」と「個別埋葬」の違いだと思いますが、納骨(遺骨の収納)方法など、パンフレットを読んでも理解し難いです。行政のやることはやっぱりこういうことなのでしょうか。
「小平霊園」には「合葬式墓地」「小型芝墓地」「壁型墓地」など、都民の墓地不足に対応した墓地開設を積極的に取り組んでいるようです。しかし、残念なことに広報や説明が十分ではないと感じます。応募数が多く、ほっておいても売れるからなのでしょうか?高い倍率の中やっと当選した人が後で後悔しないように、施設や設備(見ただけではわかり難い埋葬方法)のわかりやすい情報提供が必要かと思いました。
今回は、行政批判めいた論調になっていまいました。添田唖蝉坊の魂が乗り移ったのかもしれません・・。
※「都営墓地(都立霊園)」について・・
明治7年、公共墓地として「青山霊園」「谷中霊園」「染井霊園」「雑司ヶ谷霊園」開設。
その後、墓地不足の深刻化に伴い、大正12年「多磨霊園」、昭和10年「八柱霊園(千
葉県松戸市)、昭和23年「小平霊園」、昭和46年「八王子霊園」が開設されました。
ライター:OHSAMA
表参道。ケヤキの緑があざやか
区画標識(?)が頼りです
添田唖蝉坊のお墓がある一画
樹林墓地(コブシ・ヤマボウシ・ナツツバキ・ネムノキ・イロハモミジの樹)
樹木墓地(カツラの樹)